反共主義とは

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反共主義の歴史


19世紀 反共主義の始まりは、一般にはロシア革命の時と言われる。しかし社会主義全体との対立という意味合いでは産業革命の頃から既に始まっていた。(※社会主義と共産主義の違いについては「社会主義」の項を参照すること。) 当初の反共主義の目的は、高まる労働運動の弾圧にあった。19世紀中期では、イギリスを初めとする西欧では労資紛争が絶えず、ラッダイト運動が日常茶飯事の状態と、労働者と資本家の対立が激化していた。1871年(明治4年)には社会主義や共産主義の理念に基づき、世界初の労働者政権であるパリ・コミューンが誕生した。この時、資本家を中核とした反共勢力は周辺国への伝播を防ぐべく圧力を加え、僅か半年でパリ・コミューンは打倒された。 その後、革命勢力のうち共産主義勢力は第二インターナショナル運動へと進んだ。それに対し反共主義勢力は、オットー・フォン・ビスマルク政権の社会主義者鎮圧法(但し、ビスマルクの社会政策は、社会主義者であるフェルディナント・ラッサールの提言による。ここにも社会主義と共産主義の複雑な構図が伺える。)、山縣有朋政権の治安警察法などのように、弾圧法で共産主義・社会主義運動を弾圧した。 第一次大戦前後 第一次世界大戦中の1917年(大正6年)、ロシア革命は反共主義勢力の高揚期であった。ウィンストン・チャーチルを筆頭に反共主義を掲げる政治家は、ロシア革命による労働者政権の再来とその伝播を危惧し、その本格化が進む前に反革命戦争を惹き起こした。 日本国内では、日本共産党が労働者の解放のみならず天皇制の廃止を掲げたために、田中義一政権は三・一五事件や四・一六事件を起こして徹底的な赤狩りを行った。その際に猛威を揮った特別高等警察は、当初は共産党への弾圧を目的としていたが、次第に宗教界や言論界、反戦運動、戦時統制へ反対する人々にも弾圧の手を広げた。 世界恐慌から第二次大戦まで 1929年(昭和4年)を境に世界恐慌の時代に入ると、日本を含めた幾つかの国でファシズムや軍国主義が台頭し始める。ファシズムは共産主義と鋭く対立し、一層の弾圧を加えた。 しかし、こういった運動(ファシズム)には、共産主義や社会主義からの転向者が少なからぬ数で含まれていた。日本国内においては、昭和研究会・革新官僚・満鉄調査部など軍部政治の中核を担った勢力が挙げられる。彼らの思想には(社会主義と共に)多分に共産主義の理屈が含まれており、彼らと緊密に関わった近衛文麿は、後に「国体の衣を着けたる共産主義」と評している。日本におけるファシズムの論客として知られた北一輝も、明治維新を「天皇を傀儡とした社会主義革命」と規定し、昭和維新はそれを完成させる革命と考えるなど反共主義とは一線を画した態度を取った。また北一輝の影響を受けた二・二六事件の当事者の将校たちは、ボリシェヴィキの蜂起教範を参考にしている。 こうしたファシズムと共産主義・社会主義との関連性は、日本国内だけの例ではない。ファシズムの元祖であるベニート・ムッソリーニ(イタリア)は、元々は父子共に熱心な社会主義者であり、またスイス放浪中にウラジミール・レーニンから直接共産主義の教えを受けた経験を持っている。その後、第一次世界大戦中に抱いた民族主義との兼ね合いから既存の社会主義運動や共産主義運動と対立し自らの理論としてファシズムを創始するが、その理論もジョルジュ・ソレル(フランスの哲学者。暴力論の著者として知られる)の修正主義的マルクス主義に多大な影響を受けており、ムッソリーニ当人がソレルを「ファシズムの精神的な父」と賛え、その死をソ連のヨシフ・スターリンと共に追想したというエピソードが残っている[1]。 欧州でのファシズムの代表格であり、ナチズムの創始者でもあるアドルフ・ヒトラーも、青年時代にはレーテの活動家[2]で、「我が闘争」の中で共産主義の一派であるマルクス主義の指揮制度や集会を好例として挙げ、「私はボルシェヴィズムから最も多く学んだ」と述べている。ヒトラーの側近であるヨーゼフ・ゲッベルスも、「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる。」と語る様に、共産党のプロパガンダ活動を手本とし[3]、党歌の旗を高く掲げよも共産主義者だったヴィリ・ブレーデルの詩を焼き直した物を用いるなど、浅からぬ関係にあった。更に言えば、初期のナチ党には、ナチス左派と呼ばれる共産党やソ連との同盟を模索するグループまで存在しており、党内で大きな影響力を保持していた(ただし、ヒトラー自身はイタリア、イギリスとの同盟を模索し、前者は実現した)。一方、ナチ政権が古参幹部や左派など数十ないし数百人を粛清した長いナイフの夜事件を、さしたる国民の反発なく「成功」させたことにスターリンは意を強くし、自らも大粛清(大テロ)に踏み切る大きな原動力となった。大粛清で殺された人数は、70万とも700万ともいわれている。 こうした関係からファシズムと共産主義(この場合はマルクス・レーニン主義)はお互いの政治的過程で対立しつつも、根本的な政治思想という点では一致していると指摘する論者も多い。この指摘を裏付けるための研究はハンナ・アーレントの全体主義の系譜についての理論が著名であり、近年ではアンドレ・グリュックスマンが研究の第一人者として知られている。ソ連などの崩壊で大量の資料が公開されたことで、よりインテリジェンスな裏付けも可能になり、近年では思想史的な研究だけでなく実証的な研究も盛んになっている。 しかし、反共主義陣営では、第二次世界大戦勃発までファシズム・ナチズムの評価は分かれていた。チャーチルなどは共産主義同様の脅威であり、暴政を見過ごすべきではないと主張した。しかし、ネヴィル・チェンバレンなどの、反共のために利用できるとする見方がある時期までは優勢だった。ファシズム・ナチズムがいかに問題でも、うかつに打倒しようものならソ連にイタリアやドイツへのつけいる隙を与え、ひいては欧州全体がその勢力圏にされかねないという主張だった。チェンバレンらの取った、対独宥和政策はこの路線に沿ったものだが、第二次世界大戦開戦と、ドイツのベネルクス3国やフランスへの侵攻で破綻した。 こういった主張や研究は、ファシズムと共産主義の双方と対立する資本主義・民主主義勢力からも受容され、2006年8月31日と9月5日のジョージ・W・ブッシュ大統領の演説、三色同盟といった反共保守層からの発言にもそれが表れている。 冷戦時代 第二次世界大戦では、米英などの資本主義を掲げる国と、ソ連など共産主義を掲げる国が連合国として一致して、ファシズムを掲げる枢軸国と対決し、戦争は枢軸側の敗北に帰結し、ファシズムは急速に衰退した。戦争終結から暫らくは戦後処理などでの協力もあり、旧連合国側の蜜月が続いた。 しかし、東ヨーロッパ・中国・南米などがソ連の影響下に共産主義化していき、資本の国有化など資本主義に反する政策を進めると、両者の対立が再び表面化した。資本主義を掲げる諸国は、自国に革命が波及するのを恐れて、反共主義をスローガンにアメリカ合衆国との同盟や共産主義の弾圧を進めた。ロシア革命でも白軍を支援したチャーチルは、第二次世界大戦の終結後に「鉄のカーテン」として知られる有名な演説を行い、両者の対立(冷戦)を諷刺した。 冷戦時代の反共主義は、スターリン政権下のソ連の独裁政治を持ち出して、共産主義と民主主義とは敵対する勢力であると喧伝し、労働運動の弾圧を支持した。つまり、政治的・軍事的な反共主義である。赤狩りはその典型で、その後も反共主義勢力はこうした手法で労働運動や社会主義運動の芽を潰していった。日本でも、1949年に起こった国鉄の大リストラの背景には、赤狩りという政治的思惑が存在した(→2・1ゼネスト、政令201号)。しかし、「マッカーシズム」とも呼ばれるこの強硬な反共路線は、本来共産主義とは無縁であった人々からの反感も招き、やがて衰退した。 外交面でも反共主義は影響を与えている。アメリカ政府は、反共主義を掲げる国ならば、民主主義や自由主義の理念に反する軍事政権や独裁政権でも、「敵の敵は友」の理屈で支援した。チリのアウグスト・ピノチェト、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム、韓国の朴正煕と全斗煥、フィリピンのマルコス、台湾の蒋介石、スペインのフランシスコ・フランコ、インドネシアのスハルト、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー、ニカラグアのコントラに対する援助は、その代表的な例である。このような形振り構わぬ方針には、「他国の民主主義と民族自決を否定している」と、その矛盾や内政干渉を批判される事もしばしばである。日本でも、55年体制下において、政権を握り続けた資本主義政党の自由民主党(自民党)が反共主義の下にアメリカから、社会主義政党の日本社会党がソ連から資金援助を受けており、55年体制はそのまま冷戦状態を象徴していた。 戦後日本の反共主義の展開については、逆コースに始まる件の自民党も然る事ながら、社会党から分離した民社党と全日本労働総同盟は、(反共という点では)「自民より右」と称されるケースもままあり、ピノチェト政権や朴正煕政権など軍事独裁政権を積極的に支持した。特にピノチェト政権については、軍事クーデターを起こしたことを支持する立場を取るなど、社会主義思想の多様性を示している。日本社会党も1980年(昭和55年)の社公合意以降、他の保守・中道政党との連携と日本共産党への排除を積極的に行うようになり、相乗りオール与党体制を確立した。連合もこの流れを受け継ぐなど、冷戦時代の日本の反共主義は、第二次大戦までのような「資本主義と社会主義・共産主義の対立」だけでなく、社会主義を標榜する勢力の間の対立(日本共産党とそれ以外の社会主義・共産主義勢力の対立)という色合いも強かった。 1970年(昭和45年)以後、西欧諸国の共産党の多くはソビエト連邦から距離を置き、プロレタリア独裁と計画経済に基づくソ連型社会主義路線を放棄した。そして、議会制民主主義と多党制を擁護するユーロコミュニズムの路線を確立する。1970年以後の日本共産党も、基本的にはこの路線に近い立場を掲げている。 冷戦時代末期からポスト冷戦時代まで 1980年代に入ると、アメリカのロナルド・レーガン、イギリスのマーガレット・サッチャー、ニュージーランドのデビッド・ロンギなどに代表される新保守主義(ニューライト)が台頭した。彼らの特徴は、政治的・軍事的な反共主義より、経済的な反共主義(共産主義・社会主義へは勿論、社会民主主義への攻撃でもある)を強めている点である。労働貴族やヤミ専従など労働組合の負の面をマスコミ報道で強調し、労働組合・労働運動のイメージダウンを図る戦略が多い。又、新保守主義を掲げる政財界は、労働運動の牙城となっていた多くの組織を解体・民営化し、社会保障や、労働者保護法制の撤廃を手掛け、労働者を擁護する多くの制度・思想を一掃した。レーガン政権時代のアメリカでは、「リストラ」「ダウンサイジング」と呼ばれる整理解雇ブームが民衆を襲ったが、この整理解雇ブームを惹き起こした代表的人物が、ゼネラル・エレクトリックのジャック・ウェルチである。これ以後、ポスト冷戦時代の反共主義は、経済の反共主義という色が濃くなっている。 1989年(平成元年)にベルリンの壁が崩壊して東ヨーロッパで次々と革命が起こると、西側諸国の反共勢力は、「社会主義・共産主義は死んだ」「自由主義・資本主義は勝利した」と喧伝し、1991年(平成3年)末のソ連死滅でこの動きは頂点に達した。これに伴い、日本の日本共産党を例外として、先進諸国の共産主義勢力も大半が衰退するか、社会民主主義に方針を転換した。 ソ連が死滅すると、アメリカ的システムが絶対化されて世界を席巻し、「アメリカナイゼーション」「グローバリズム」とも呼ばれるグローバル資本主義の時代が到来した。グローバル資本主義は、1997年(平成9年)のアジア通貨危機などの経済危機や、プレカリアート(不安定雇用労働者)の爆発的増大と、社会貧富の二分化(格差社会の拡大)、環境破壊、地域紛争など様々な問題を惹き起こした。このグローバル資本主義に反発するイスラム過激派は、2001年(平成13年)にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こした。そして、アメリカのサブプライムローンを引き金とする2008年(平成20年)の世界金融危機により、世界経済は「100年に1度」と言われる程の深刻な影響を受けている。 また、共産主義を標榜する中国共産党政権下でありながら市場経済体制を実行し、労働運動を弾圧する中華人民共和国への対応は、反共の立場を掲げる者の間でも賛否が分かれている。

冷戦終結後の経過


米蘇冷戦が終結した当初の1990年代初期においては、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で述べたことを受けて、希望と幸福が訪れると見る向きもあった。しかし、冷戦終結直後の1991年12月に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となってアメリカ的システムが絶対化されるアメリカナイゼーションが世界を席巻した。政治のアメリカナイゼーションは「民主化」の名で、経済のアメリカナイゼーションは「グローバリゼーション」の名で推進された。同時に冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。 東ヨーロッパを見ると、1992年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を付けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。又、このテロにはイスラム原理主義過激派の関与が疑われている。 西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの国交正常化の外は、中華人民共和国と中華民国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。特に、中華人民共和国は1989年から軍備増強を強力に推し進めており、近年になって周辺国(日本や台湾や韓国)にとって脅威となっていると言われるようになった(中国脅威論、米中冷戦)。中華人民共和国は、民主主義国家ではなく、一党独裁国家であり、また2000年代に入って暴動が多発するなど国内が不安定化している。フランシス・フクヤマの論に従えば、一党独裁国家である中国は、政府が倒れる時が必ずやってくるということになる。 ロシアは、ソ連が死滅すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、牽制の動きを見せるようになった。現在のロシアも独裁体制に近く、これもまた、フクヤマの論に従えば、政権が倒れる時が必ずやってくるということになる。 つまり、将来において中国、ロシアの現政府が倒れ、民主化したとき、大国同士の冷戦や世界大戦の危険性は消え、全世界において民主主義体制が半永久的に続き、歴史が終わるとされる。民主主義の枠内であれば、政権交代により社会問題や他国との国際問題を解決できるとされる。しかし、現段階では民主主義体制・資本主義体制が民に必ずしも豊かさと幸福をもたらしていないことが、アメリカ発の世界同時不況により立証された。現段階では、資本主義・民主主義は経済格差や不況、資本家による労働者の使い捨てなどによってもたらされる社会の悲惨さを解決できていない。しかし、時間はかかるが民主主義体制の枠内なら問題は解決可能という見方もある。また、フクヤマの論は、アメリカによる民主化(時には武力を伴う)を是とするものだという誤った解釈がなされ、「自由」があることをいわば「売り」とするアメリカニゼーションが世界中で急速に進んでいる。ただ、実態がアメリカの国益追及であるにせよ、結果的に第二次世界大戦以降、アメリカの同盟国・友好国・アメリカにより民主化された国(イラクなど)の民が自由を手に入れたのは事実である。冷戦中は反共主義という理由でアメリカの支援を受けていた独裁国家も冷戦終結以降はサウジアラビアなどを除いて次々と民主化されている。 アメリカは「冷戦の勝戦国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権はパレスチナ問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した。又、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くイスラム原理主義過激派は、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。 核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中蘇対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。 2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。 経済と雇用の悪化は冷戦時代よりも烈しく、実際に訪れた現象は希望と幸福ではなく、絶望と災難であった。現実は甘くはなかったのである。社会主義政権の消滅により、「無規制」「解雇自由」「大資本家のみの繁盛」を特徴とするアメリカ型経済システム(新自由主義)が「グローバリゼーション」の名で世界中に広まり[2]、多国籍企業は地球規模でパイを奪い合う「大競争時代」を作り上げた。この結果、日本を初め世界中が「日銭の世界」と化して、世界中で不安定雇用労働者(プレカリアート)が爆発的に増大した。国際通貨はドルが世界で唯一の基軸となり、ヘッジファンドと呼ばれる投機家が世界中で投機熱を惹き起こし、その最中の1997年にはアジア通貨危機が勃発した。その後も1998年8月にはロシア財政危機が起き、1999年1月にはブラジル通貨危機が起き、2001年12月にはアルゼンチン経済危機(デフォルト宣言)が起きた。韓国を初め経済危機に襲われた国々では、雇用情勢が急激に悪化し、プレカリアートが急増した。この経緯から、日本では、ソ連死滅当時10代や小学生だった世代は、「貧乏くじ世代」と呼ばれる事も多い。 そして、2008年にはサブプライムローンを引き金とする世界同時不況が発生し、世界は「100年に1度」と呼ばれる程の経済危機に直面している。皮肉にも、「グローバリゼーション」を推進したアメリカが、世界同時不況の引き金を引く結果となってしまった。

反共である理由


そもそも、なぜ人が反共思想に染まるのかについては諸説ある。 * 一つは人本来が持っている保守志向(昔を懐かしむ、秩序を維持したい、新しい物に対する警戒感)などがあげられる。人は、自己の経験の範囲外の事やものに対して、期待あるいは恐怖のいずれかに極端に偏った感覚をもつ傾向がある。このようなときには、たとえ些細であったり根拠が乏しいとしても、肯定的・否定的どちらかにとれる情報がインプットされると、妄想的感覚のポジティブフィードバックが形成され、極端な期待あるいは嫌悪感に結びつくことが起こり得る。この後者の状態として、反共主義をとらえることができる。また、実現性が未知数で確かな力をもたないものよりも、既存の強者・権力者に寄り添いたいと思う人間心理と結びつけることもできる。 * もう一つは共産主義そのものに対する拒絶反応である。例えば、私有財産制度を維持する立場である。共産主義はもともと、私有財産制(生産手段の私有)を貧富の格差を生み、紛争や飢餓などを生む要因として否定していた。日本の経営者団体や、自営業者の団体が、自由民主党を支持するのは、自身の既得権益を守らんがためである。 * さらにあげられるのは、伝統維持の立場である。共産主義は、伝統は階級社会の産物であり、歴史的に変化するものと考える。ピノチェトは、軍事クーデターを起こした理由を聞かれ、「共産主義がカトリックの伝統を破壊するからだ」と述べた。中曽根康弘も、冷戦終結後に、「在任中は、反共で一致したから、不沈空母発言をしたが本当は米国も好きではない。米国は、伝統のないからからに乾いた合理主義の国だ」と述べている。極端なケースとしてはミャンマー(旧ビルマ)のネ・ウィンが存在しており、彼はビルマの伝統や文化が損なわれるとして、共産主義ばかりでなく欧米の自由主義・資本主義体制にも距離を置き、ビルマ式社会主義と呼ばれる独特の政治体制を構築して世界から孤立化した。 * 過去に存在した共産主義国(ソ連・東欧をはじめとしたソ連型社会主義など、20世紀の社会主義モデル)の社会の実態から、共産主義を否定することもある。 * 他にも、労働運動に対する偏見や、国・地域の歴史的経緯も影響していると思われる。 それ以外にも単なる感情的、または人間心理的な要因も考えられる。反共の権力者は、学校教育を通じて大衆に共産主義を悪い印象で教え込むだろうし、反共のマスコミは新聞・雑誌・テレビなどを通じて共産主義の負の側面を強調するであろう。更に反共の親は、家庭教育を通じて子供に共産主義を悪い印象で教え込むであろう。日本の警察学校は、公安に関する教程で、日本共産党を敵視するよう学生に教授する事で知られる。このようにして、現社会体制と異質な思想に対する忌避感は継承・再生産されやすい。


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